最近書いてねえから書こう、と思い立った日の日付は、いつの間にか変わっていた。
仕事で稽古を休んだ。なにをやっているんだ、という思いはあるが、まあそれなりに帰属意識をもってやっている仕事だ、「休みたくない」「休めない」ものが複数あることが厭ではないことも確かだ。
稽古終わって呑んで終電逃した何人かが泊まりに来て、要でもありそうで結局なんでもない話をし、トイレを詰まらされて処理すると午前二時。外は雨。天体観測は無理。
こういう何でもない日だって、書き残せば形として残る。残さないから何でもなくなる。俺が言っているのはそういうことだ。
2016年04月14日
2016年04月05日
みどりの日々
ラジオ収録に備えてゲオで借りてきた(Disc買ったのにどこ行ったのかしら)『イングロリアス・バスターズ』、腹痛と下痢(昨日からウンコが緑色)でやってられないのでとりあえずマイフェイヴァリット教材である「Chapter1」をかける。何度観ても最高である。
この映画の「Chapter1」こそクエンティン・タランティーノ信者である俺にとって映画的感動体験として永久に刻まれているシーンだし、なにを隠そうこのシーンのクリストフ・ヴァルツasランダ大佐が俺の芝居する上でのモデルというか目標なのだ。いつか演らせろランダ大佐。
詳しいことはラジオで喋んねえとネタが尽きるのでこの辺にしておくが。
タランティーノに限らず、俺が好きな映画監督でも小説家でもそうだけど、どんなテーマであろうともちゃんと「ジャンルの持つエンターテイメント性」、その枠内で語ろうとする強い矜持を見せてくれる作家が好きだ。だからロックならノれなきゃダメだし、コメディなら笑えなきゃダメだ。「そのジャンルで戦うこと」に意味があるんだ。
だから、考証より背景より、まず笑えるかどうかだ。客席沸かせられるかどうかだ。
説得力はそのための道具なんだ。順番間違えるな。
という自戒であり警告。
この映画の「Chapter1」こそクエンティン・タランティーノ信者である俺にとって映画的感動体験として永久に刻まれているシーンだし、なにを隠そうこのシーンのクリストフ・ヴァルツasランダ大佐が俺の芝居する上でのモデルというか目標なのだ。いつか演らせろランダ大佐。
詳しいことはラジオで喋んねえとネタが尽きるのでこの辺にしておくが。
タランティーノに限らず、俺が好きな映画監督でも小説家でもそうだけど、どんなテーマであろうともちゃんと「ジャンルの持つエンターテイメント性」、その枠内で語ろうとする強い矜持を見せてくれる作家が好きだ。だからロックならノれなきゃダメだし、コメディなら笑えなきゃダメだ。「そのジャンルで戦うこと」に意味があるんだ。
だから、考証より背景より、まず笑えるかどうかだ。客席沸かせられるかどうかだ。
説得力はそのための道具なんだ。順番間違えるな。
という自戒であり警告。
2016年03月31日
母校
母校というものがある。
それは別に卒業したから、というものではない。確かに浦安市立南小学校を卒業したが、あそこを母校と呼ぶ感覚は俺にはない。
今に至るまでの「自分」というものの形成、それに大きな影響を与えた場所、それが母校だ。
間違いなくそれが国府台高校である。
そしてその高校生活の大部分を過ごした4階のあの音楽室と、薄暗い部室。吹奏楽部が俺の居場所で、国府台高校吹奏楽部員トランペットパートが、俺の役割だった。それだけだった。他になにもなく、なにもいらないとさえ思っていた。充足も不満も悔恨も後悔も恋愛も、全部があった。
だから正確に言うと、そして表現はおかしいけど、俺の母校は「国府台高校吹奏楽部」だ。
で、卒業して丸10年以上経ってしまった。そして今でも似たようなことをやっている。
そう、似たようなことだ。俺にとって演劇公演はスプリングコンサートなんだ、多分。だから聴きに行く度にちょっと嫉妬する。動員とか。今日は多分1000越えてたんじゃないか?
鴻陵楽団(吹奏楽部をこう呼ぶ)定期演奏会である「スプリングコンサート」。毎年手伝いに行ったり聴きに行ったりしていたが、ここ2年くらい忙しさにかまけて足を運んでいなかった。今年は同期の誘いもあり、都合をつけた。結局途中からになってしまったが、メインの大曲には間に合った。
いつものことながらアンコールまでタフに走り抜ける彼らは、最高にカッコよかった。
一丁前に「プロフェッショナルであろう」「パフォーマーであろう」とする背伸びと、
単純極まりない「今この瞬間が楽しい」「ここが終わればどうなってもいい」という甘さと。
そういう学生バンド特有のアマチュアリズムとプロ意識が入り混じったマーブル模様は、本当に美しくてグッとくる。
そして何より、あんないいバンドが今日を限りで解散するってこと。この日のために組み上げたとっておきのバンドサウンド、それが卒業と引退とでまたバラバラになる。そんな一過性の一番いい場面と演奏を、観られる聴ける。なんという贅沢。もったいないが、だからこそのあのパフォーマンス。
まさに「No day, but today.」じゃないか。
君たちは、スゴいことをやっているんだぜ。心臓がバクバクする。叫びたくなる。でも「ブラボー」なんてガラじゃないから、その代わりに(一人だけど)万雷の拍手を。
もちろん、演奏も素晴らしい。だけど彼らの立ち姿、生き様みたいなものに圧倒されるんだ、毎回。そしてそれが不思議と演奏に乗るんだ。
終演後、懐かしい顔との再会。帰り道、同期と飲みながら近況報告。「若くねえな」「勝てねえな」みたいなことを言いつつも、産んだり別れたり、皆それなりに波乱万丈。充分アグレッシヴじゃないかと思うし、変わんねえな、とも思う。
そうなのだ。人生は続く。当たり前だけど。失ったって捨てたって、また居場所も役割も与えられる。望むも望まざるも。それを生かすか殺すかだ。
こういう大それたことを考えさせる故に、あそこは唯一の「母校」なのだ。
それは別に卒業したから、というものではない。確かに浦安市立南小学校を卒業したが、あそこを母校と呼ぶ感覚は俺にはない。
今に至るまでの「自分」というものの形成、それに大きな影響を与えた場所、それが母校だ。
間違いなくそれが国府台高校である。
そしてその高校生活の大部分を過ごした4階のあの音楽室と、薄暗い部室。吹奏楽部が俺の居場所で、国府台高校吹奏楽部員トランペットパートが、俺の役割だった。それだけだった。他になにもなく、なにもいらないとさえ思っていた。充足も不満も悔恨も後悔も恋愛も、全部があった。
だから正確に言うと、そして表現はおかしいけど、俺の母校は「国府台高校吹奏楽部」だ。
で、卒業して丸10年以上経ってしまった。そして今でも似たようなことをやっている。
そう、似たようなことだ。俺にとって演劇公演はスプリングコンサートなんだ、多分。だから聴きに行く度にちょっと嫉妬する。動員とか。今日は多分1000越えてたんじゃないか?
鴻陵楽団(吹奏楽部をこう呼ぶ)定期演奏会である「スプリングコンサート」。毎年手伝いに行ったり聴きに行ったりしていたが、ここ2年くらい忙しさにかまけて足を運んでいなかった。今年は同期の誘いもあり、都合をつけた。結局途中からになってしまったが、メインの大曲には間に合った。
いつものことながらアンコールまでタフに走り抜ける彼らは、最高にカッコよかった。
一丁前に「プロフェッショナルであろう」「パフォーマーであろう」とする背伸びと、
単純極まりない「今この瞬間が楽しい」「ここが終わればどうなってもいい」という甘さと。
そういう学生バンド特有のアマチュアリズムとプロ意識が入り混じったマーブル模様は、本当に美しくてグッとくる。
そして何より、あんないいバンドが今日を限りで解散するってこと。この日のために組み上げたとっておきのバンドサウンド、それが卒業と引退とでまたバラバラになる。そんな一過性の一番いい場面と演奏を、観られる聴ける。なんという贅沢。もったいないが、だからこそのあのパフォーマンス。
まさに「No day, but today.」じゃないか。
君たちは、スゴいことをやっているんだぜ。心臓がバクバクする。叫びたくなる。でも「ブラボー」なんてガラじゃないから、その代わりに(一人だけど)万雷の拍手を。
もちろん、演奏も素晴らしい。だけど彼らの立ち姿、生き様みたいなものに圧倒されるんだ、毎回。そしてそれが不思議と演奏に乗るんだ。
終演後、懐かしい顔との再会。帰り道、同期と飲みながら近況報告。「若くねえな」「勝てねえな」みたいなことを言いつつも、産んだり別れたり、皆それなりに波乱万丈。充分アグレッシヴじゃないかと思うし、変わんねえな、とも思う。
そうなのだ。人生は続く。当たり前だけど。失ったって捨てたって、また居場所も役割も与えられる。望むも望まざるも。それを生かすか殺すかだ。
こういう大それたことを考えさせる故に、あそこは唯一の「母校」なのだ。


